連載 No.1 2015年4月5日掲載

 

何かに引き寄せられてその場所にいる


自分は写真家だと自己紹介すると、いつも聞かれることがある。「何を撮っているんですか?」。

とても、単純な質問なのに、うまく説明できない。

 いろいろな答え方があると思う。例えば「ドキュメンタリー、商業写真、誌…」などの分類、

それとは別に、「子供たち、世界の美しい自然現象、後世に残したい歴史…」なんていう説明。


 写真を学び始めた1970年代、よく耳にしたこと。大切なのは、何を撮るかということ。

「誰もが出合えない世界、見過ごされている何か、そんなものを見つけて、撮影しなければなければ、写真としての価値がない」

 そのころは、写真といえば、雑誌のような印刷物の中を時代とともに流れていく情報で、

美しい写真集であっても、「何が撮られているか」、そういう切り口で、作られたものが多かった。

見る側も、写真を文字のように解釈し、言葉を読むように見ていたのだと思う。


 自分の写真はそんな分類にも、解釈にも、なんだか当てはまらない。

被写体は、さまざまだ。埋め立て地の泥や、海岸線の岩。自然界だけでなく、

廃墟やヌード、はがれたベニヤもあれば、割れたプラスチックのバケツなんかもある。

 今回のイメージは東北の廃墟で撮影したもの。廃虚の写真と言えば、ノスタルジーやセンチメンタルな感じのものをよく目にするけれど、

ここに見えるものは、コンクリートの造形と、光の生み出す強いコントラスト。どちらかと言うと遺跡のような感じ。


 撮影したのは20年前。

何年も通って何日も過ごすのに、まったく撮れない。そんな場所だったのに、ある朝ふっと目に付いた。

 それまでも、おそらく、同じ条件はあったのだと思うのだけれど、

何年かの歳月で変わったのはおそらく自分。突然見えるようになる。

 「何を撮る」そう簡単に言うけれど、見えているものは人それぞれだ。

何かに引き寄せられてその場所にいる。何が自分をひきつけているのかは、意外とすぐにはわからない。

 そして、撮影は、その入り口。作品が仕上がるまでには、さらに長い道のりがある。